
2006年03月31日
2006年03月29日
お誘い上手

おなかは空いていて、でも時間のない時は、なんて罪なお店・・・。(笑)というのは冗談ですが、最近のスイーツカフェなどの店頭の魅せ方は、ホント上手なところ多いですね。
販売しているカウンターのショーケースには本物のケーキが美味しそうに並んでいて、そして壁面ケース一面にケーキが並んでいたりもありますが、あれは偽物だったりします。でも偽物と思えない精巧さ。とっても美味しそう・・・。すごい技術の進歩ですよね。
あと、ケーキをつくったり切ったりしているところを、外から見せる演出のところも増えています。見せられることで、匂いはしないのに、甘い香りが漂ってきそうに感じてしまう。視覚的効果バツグンです。
甘いもの好きには、お店の中からケーキに“おいで、おいで”されてるような、呪文をかけられてしまいます。
話は変わりますが、スマップの新曲は“世界に誇れる日本女性への応援歌”だそうです。でたでた!“世界に誇れる日本”、しかも“女性”ときました。(今朝の「めざましテレビ」での話題でした。)
最近の、日本の回顧を促す売れている本なども、なにも、ご年配の方々の間でだけ売れているわけじゃなかったりです。こと「ラスト・サムライ」以降、売るという部分では、けっこう仕掛人もいそうだなという感じもありますが、まぁ、こういう風潮はメディアの作戦勝ちになればなったで、よい風潮かなとも思わなくもなくです。日本のデザインを見直す上でも、よい影響もあるんじゃないかと。
ここではブームに関係なく(ブームより先に思ってましたが)、過去にさかのぼり“世界に誇れる日本のデザイン”のよさを見直したいと思ってきておりますが、それは一時のブームには終わらせたくないものです。
女性についていえば、スマップの場合、あまたの日本女性ファンに支えられてもいますから、最近のちょっとしたブームをうまく取り入れて、上手に女性をよい気分にさせておこうといったところでしょうか。さすが、お上手です。
日本経済において消費が冷え込んだ時も、比較的元気に消費を支えていたのは女性だったりもします。
スポーツ界でも、日本女性の活躍がめざましかったりですから、“世界に誇れる”もウソじゃないですしね。これが一番、大きな影響力かもしれませんね、日本を見直す(さらに+女性)ってことをブームにまでもっていこうとする発想に。
男性の方々も、身近な女性をそんな歌やスイーツでも小道具にねぎらっておくと、よいことあるかもしれませんよ。
2006年03月25日
現場好き
『事件は会議室で起こってるんじゃない!現場で起こってるんだ!』
ご存知の方も多い、ドラマ「踊る大捜査網」の青島刑事のセリフです。
刑事さんの現場100回じゃありませんが、これ、いろんな物事に、案外言えることなのかもしれません。
例えば、ものづくりの現場でも。
わたしは、現場好きです。
今はオフィスでの図面描きの仕事が多いのですが、これも一種の、図面などを描く現場かなぁと思っています。
そして、建築、内装の工事の現場も好きでした。
女性の発言としては、珍しいのかもしれませんが。安全靴に安全帯、ヘルメットの出で立ちで、髪の毛の中まで埃だらけになって駆けずり回ったりですから。忙しかった頃は、終わりかけの現場と新しい現場が重なって、作業着のまま大阪と京都と奈良の間を行ったり来たりしたこともありました。当然ながら、そんな時は始発出かけの終電帰り続き。事務所に泊まり込んだこともあります。
けれど、きつい、危険、汚い・・・なんて世間一般に言われるような中での、その瞬間にしか見られない裏側は、百聞は一見にしかずで、そして問題点もこの時点で解決しなきゃならないことはたくさん出てきます。土工さん、ボード屋さん、大工さん、電気屋さん、空調屋さん・・・、まだまだ様々な職種の方がひとつの工事現場を支えていますが、そこでのコミュニケーションと連携プレーの末、ようやく形が見えてくる。自分で描いた図面が形になり、それをその現場に携わってくださった様々な人々と一緒に、喜びあえる瞬間でもあります。
大きな現場も小さな現場も、一大イベントです。色々、おもしろい現場話なんかも、そのうち書いてみようかとも思ったりです。
それ以外でも、いろんな現場を見てきました。
グラフィック広告の制作現場。わたしが知っているのは、平行定規が並んでいたような頃ですが、ちょうどMacを世の中に普及させようとする現場も垣間見てきました。以前、その時代の流れをちょっとだけ記事にしたことがありましたが、わたしのいた場所で、大日本印刷や凸版印刷の上層部の方へ、Macをどう活用していったらよいかのプレゼンテーションをしていましたので、ほんと、肌で時代を感じとった一人でもあります。
あと時代の流れで言いますと、LEDで、ちょうど白を加えてフルカラーにできるようにした時の、よく街角で見られる大画面の製作にも少々立ち会ったりもしました。製作の工場現場です。スタッフの方々と一緒にですが、ある物件の制御用の基盤を組み立てたこともあります。
書くことの世界での現場だと、取材でしょうか・・・。他にもあるよ、という声もあるかもしれませんが、これもほんのちょっとだけですが、経験したことがあります。医科歯科大の学会に取材者として出席し、そのテープ起こしをしたなんてこともありました。うんと若かりし頃、人手が足りない中、駆り出されたようなものだったのですが、その時は必死でしたが、よい文章とはおよそ言いがたい出来でしたし、その原稿を書き上げた直後、緊張の連続だったためか熱出して、2日ほど寝込んだなんてこともありました。
寝込んだことはさておき、取材して見えることって、やはりたくさんありました。その時の自分なりに。
わかりやすいお話に例えるなら取材ということではなくても、例えば、いろんな方々のブログで語られる体験談は、やはり生の声として参考になることが多いですよね。
生の、実際の、肌触りのようなもの、語られなくても見えないようなものが見えてもくるのも、現場ならではな気がします。
現場には、ほんとうのこと、が隠れてもいます。
それを、それぞれの現場にいる人々が、どのように受け止め、どう行動するかで、問題が解決されたり、時によってはおざなりにされてしまったりも起こります。
実際の問題点が一番見えているのも、現場ではないでしょうか。
書くことでできることは、それを繰り返さないよう、見えやすくするためのお手伝いかもしれません。もちろん、それだけではありませんが・・・。
そして現場にあっては、常に問題意識をもつこと、相談すること、我を忘れず初心に立ち返ってみること、そんなことが一つ一つの問題解決の糸口にもなるかもしれません。
ほんと、いろんな経験をしております。
器用貧乏かもしれません。(苦笑)
年齢を経てきて、こうして書いたりする中でようやく、この経験から見えることが役に立てられるかもしれないなぁと、最近思っています。
ご存知の方も多い、ドラマ「踊る大捜査網」の青島刑事のセリフです。
刑事さんの現場100回じゃありませんが、これ、いろんな物事に、案外言えることなのかもしれません。
例えば、ものづくりの現場でも。
わたしは、現場好きです。
今はオフィスでの図面描きの仕事が多いのですが、これも一種の、図面などを描く現場かなぁと思っています。
そして、建築、内装の工事の現場も好きでした。
女性の発言としては、珍しいのかもしれませんが。安全靴に安全帯、ヘルメットの出で立ちで、髪の毛の中まで埃だらけになって駆けずり回ったりですから。忙しかった頃は、終わりかけの現場と新しい現場が重なって、作業着のまま大阪と京都と奈良の間を行ったり来たりしたこともありました。当然ながら、そんな時は始発出かけの終電帰り続き。事務所に泊まり込んだこともあります。
けれど、きつい、危険、汚い・・・なんて世間一般に言われるような中での、その瞬間にしか見られない裏側は、百聞は一見にしかずで、そして問題点もこの時点で解決しなきゃならないことはたくさん出てきます。土工さん、ボード屋さん、大工さん、電気屋さん、空調屋さん・・・、まだまだ様々な職種の方がひとつの工事現場を支えていますが、そこでのコミュニケーションと連携プレーの末、ようやく形が見えてくる。自分で描いた図面が形になり、それをその現場に携わってくださった様々な人々と一緒に、喜びあえる瞬間でもあります。
大きな現場も小さな現場も、一大イベントです。色々、おもしろい現場話なんかも、そのうち書いてみようかとも思ったりです。
それ以外でも、いろんな現場を見てきました。
グラフィック広告の制作現場。わたしが知っているのは、平行定規が並んでいたような頃ですが、ちょうどMacを世の中に普及させようとする現場も垣間見てきました。以前、その時代の流れをちょっとだけ記事にしたことがありましたが、わたしのいた場所で、大日本印刷や凸版印刷の上層部の方へ、Macをどう活用していったらよいかのプレゼンテーションをしていましたので、ほんと、肌で時代を感じとった一人でもあります。
あと時代の流れで言いますと、LEDで、ちょうど白を加えてフルカラーにできるようにした時の、よく街角で見られる大画面の製作にも少々立ち会ったりもしました。製作の工場現場です。スタッフの方々と一緒にですが、ある物件の制御用の基盤を組み立てたこともあります。
書くことの世界での現場だと、取材でしょうか・・・。他にもあるよ、という声もあるかもしれませんが、これもほんのちょっとだけですが、経験したことがあります。医科歯科大の学会に取材者として出席し、そのテープ起こしをしたなんてこともありました。うんと若かりし頃、人手が足りない中、駆り出されたようなものだったのですが、その時は必死でしたが、よい文章とはおよそ言いがたい出来でしたし、その原稿を書き上げた直後、緊張の連続だったためか熱出して、2日ほど寝込んだなんてこともありました。
寝込んだことはさておき、取材して見えることって、やはりたくさんありました。その時の自分なりに。
わかりやすいお話に例えるなら取材ということではなくても、例えば、いろんな方々のブログで語られる体験談は、やはり生の声として参考になることが多いですよね。
生の、実際の、肌触りのようなもの、語られなくても見えないようなものが見えてもくるのも、現場ならではな気がします。
現場には、ほんとうのこと、が隠れてもいます。
それを、それぞれの現場にいる人々が、どのように受け止め、どう行動するかで、問題が解決されたり、時によってはおざなりにされてしまったりも起こります。
実際の問題点が一番見えているのも、現場ではないでしょうか。
書くことでできることは、それを繰り返さないよう、見えやすくするためのお手伝いかもしれません。もちろん、それだけではありませんが・・・。
そして現場にあっては、常に問題意識をもつこと、相談すること、我を忘れず初心に立ち返ってみること、そんなことが一つ一つの問題解決の糸口にもなるかもしれません。
ほんと、いろんな経験をしております。
器用貧乏かもしれません。(苦笑)
年齢を経てきて、こうして書いたりする中でようやく、この経験から見えることが役に立てられるかもしれないなぁと、最近思っています。
2006年03月20日
根本 U
デザインは、デザイナーのものではない。
なにかのデザインがあったとして、
そのデザインを伝え広めた人のものでもない。
ひと目ぼれで、あるいは永く使ってみて、
良いと感じた人にとって、
良ければ良いデザイン。
理屈じゃない・・・。
著名なデザイナーのものでも、
無名なデザイナーのものでも。
論じられることは、後からついてくる。
何か違う・・・。
そう感じる今日この頃。
デザインは、デザイナーのものではない、けれど、
良いものがデザインされていくために、
デザイナーは無心に自分を信じなければできないときがある。
本当に・・・、デザインをしていくことに、
元気を得られるようなもの、与えられるようなものが
読みたくなってきた。
ものについての良し悪しだけでなく、
デザイナーの心が置いてきぼりにならないものも、
あっていいのではないだろうか・・・。
デザイナーが伝えたい言葉を、正確に伝えられる、
そういうものも書きたい・・・。
そんな力がほしい。
なにかのデザインがあったとして、
そのデザインを伝え広めた人のものでもない。
ひと目ぼれで、あるいは永く使ってみて、
良いと感じた人にとって、
良ければ良いデザイン。
理屈じゃない・・・。
著名なデザイナーのものでも、
無名なデザイナーのものでも。
論じられることは、後からついてくる。
何か違う・・・。
そう感じる今日この頃。
デザインは、デザイナーのものではない、けれど、
良いものがデザインされていくために、
デザイナーは無心に自分を信じなければできないときがある。
本当に・・・、デザインをしていくことに、
元気を得られるようなもの、与えられるようなものが
読みたくなってきた。
ものについての良し悪しだけでなく、
デザイナーの心が置いてきぼりにならないものも、
あっていいのではないだろうか・・・。
デザイナーが伝えたい言葉を、正確に伝えられる、
そういうものも書きたい・・・。
そんな力がほしい。
根本
たまたま、わたしが見てきた周りが、常にそういう人々が多かったというだけなのかもしれないが、自分の会社に対しては無頓着でも、得意先に対しては、その要望に対して真剣に取り組む人々が多かった。
でも考えてみると、得意先に対して一生懸命であれば、それが自然に会社のためにも、自分のためにもなっている。
広告の世界でも、建築の世界でも、内装の世界でも・・・、制作の現場側では、そんなインハウスデザイナー達が多かった。今もそうである。
プロダクトでも、得意先が一般ユーザーに変化するだけで、そう変わりはないような気はする。
ただ会社によって、できることの範囲などが制限されてくる場合がある。それが所属するということの壁であったりで、だがこれも人によってはクリアしてしまう人もある。
独立された個人でも、その実力に応じて、できることの範囲は違うだろう。
また、できる範囲もすべて縛られず、自分で考えたい人々が、独立されていくようにも思う。
バブルがはじけてここ数年、デザインの業界でも、倒産の憂き目を見た企業はたくさんある。得意先の事情により、やった仕事の支払いがなされなかったといった経験を、他の業界と同じように経験している会社もたくさんあることだろう。
リストラもそうである。
デザインは、それを必要とする側の経済状況によっても、できることできないことが変わってくる。社会の経済状況とも密接に絡んでいる。
コストの削減につぐ、削減。デザイナーが望む望まないに関わらず、それが要求されることは多々ある。
社会的な知名度とも絡んでくることもあるかもしれないが、・・・だが、これらの諸問題は、インハウスかそうでないかに関係なく、起こる問題でもある。
こんなことも、ほんの一部分。
インハウスかそうでないかは、それほど大きな問題ではないように思っている。インハウスであれ、独立であれ、できる人はできるし、やる人はやる、できない人はできないし、やらない人はやらない。
どちらの場合も、問題点が、見えている人は見えているし、見えていない人は見えていない。
でも考えてみると、得意先に対して一生懸命であれば、それが自然に会社のためにも、自分のためにもなっている。
広告の世界でも、建築の世界でも、内装の世界でも・・・、制作の現場側では、そんなインハウスデザイナー達が多かった。今もそうである。
プロダクトでも、得意先が一般ユーザーに変化するだけで、そう変わりはないような気はする。
ただ会社によって、できることの範囲などが制限されてくる場合がある。それが所属するということの壁であったりで、だがこれも人によってはクリアしてしまう人もある。
独立された個人でも、その実力に応じて、できることの範囲は違うだろう。
また、できる範囲もすべて縛られず、自分で考えたい人々が、独立されていくようにも思う。
バブルがはじけてここ数年、デザインの業界でも、倒産の憂き目を見た企業はたくさんある。得意先の事情により、やった仕事の支払いがなされなかったといった経験を、他の業界と同じように経験している会社もたくさんあることだろう。
リストラもそうである。
デザインは、それを必要とする側の経済状況によっても、できることできないことが変わってくる。社会の経済状況とも密接に絡んでいる。
コストの削減につぐ、削減。デザイナーが望む望まないに関わらず、それが要求されることは多々ある。
社会的な知名度とも絡んでくることもあるかもしれないが、・・・だが、これらの諸問題は、インハウスかそうでないかに関係なく、起こる問題でもある。
こんなことも、ほんの一部分。
インハウスかそうでないかは、それほど大きな問題ではないように思っている。インハウスであれ、独立であれ、できる人はできるし、やる人はやる、できない人はできないし、やらない人はやらない。
どちらの場合も、問題点が、見えている人は見えているし、見えていない人は見えていない。
2006年03月19日
知恵=デザイン

我が家で活躍の、おしゃもじ。
大手メーカーの炊飯器に付いていたものですが、とても使い勝手がよく、ずっと使っています。炊飯器に合わせて、納まりよく、耐熱加工もされ、つくられてもいます。
そして、おしゃもじのカタチ。昔からある、これもデザイン。
生活の中で生み出された、モノのカタチ、その知恵。
デザインの根本ではないでしょうか。
2006年03月16日
日本のデザインをめぐる要素
建築やインテリア、プロダクト、良いデザインのものを世に生み出すためには、デザイナーのデザイン力は当然重要なのだが、形にする段階での技術力も非常にものを言い、これも大変重要であったりする。
どんな優れたデザインの図面を描いたとしても、それを見事に形にしてくれる現場サイドの段取りや相談、指示、そしてさらに威力を発揮する職人さんの技のような部分、この協力がなければ良いデザインに結びつかないことは多々ある。
先だってのJCDのシンポジウムでのお話しをまた取り上げると、佐藤オオキ氏のwindというスツールがあるが、あれが出来上がったのは天童木工の職人さんの技あってのものだったそうだ。
話を聞かなくとも業界の方なら、windを一目ご覧になって、天童木工と結びつけられた方も多いのではないだろうか。
この技術力は、気がかりな部分では2007年問題とも絡んでくる。団塊世代の定年退職から起こりうる問題、一見デザインとは関係ないことのように見える社会問題が、良質のデザインを生み出せるかどうかにも関わってくることで、人材の育成がこれから重要課題となってくるだろう。
プロダクト生産においては、海外での生産土壌の開拓もさらに必要とされ、情報管理と技術力発信が日本経済をも支える鍵になるようにも感じる。
また生み出すだけではなく、その後のメンテナンスといった対応の良し悪しも、この問題と昨今の企業の生き残りをかけた大量リストラが関わっている。現場サイドの人材確保は、長期的な展望に立った時の企業の存続において、考え改めるべき問題でもあるかもしれない。
優れた人材や技術力、さらにここから考え進めていくと、本来、日本人が持っている情緒といったことにも繋がっていくようにも思う。団塊世代が築いてきた高度成長へ向けた技術力のこだわりは、勤勉さであり、きめ細やかさに気がつける心からくるものでもあり、昔から日本人が培ってきた精神世界にもおおいに関わる部分である。
そして、この精神的な要素は、デザインの世界にも巡りめぐって反映される必要を迫られる。
日本のアニメーションやマンガは海外でも高い評価を得ているが、そのきめ細やかさや情緒豊かな感性による表現力が評価されているとも言えると思う。
日本国内のインテリアやデザイン雑誌で、売れる雑誌、売れゆきの伸び悩む雑誌の違いも、内容ありきの上で、一目見た瞬間、この感性に響くようレイアウトされているか否かも関係あるのではないだろうかと思うことがある。海外のすばらしいものを日本に取り込む時には、見せ方、色使い、日本の環境に置き換えてみる必要もあるのではないだろうか。
どんなに欧米文化が広がっても、日本人が子供のころから育っていく環境の中で、四季があり、それを愛でる日本人の心理は、好むものを自然に選ばせる。桜の花びらや紅葉に感じ取る色合いや風情のような、そんな環境の中で自然に身につく選べる感性は、今、日本人が見直すべき、世界にも誇れるものを生み出せる原動力のひとつでもあるのかもしれない。
無機質な素材のものすら、まわりの環境とのマッチやいくつかの素材の組み合わせで、わびさびといった風情を表現させるような感性も日本人は持っており、そんな建築やプロダクトのデザインを手掛けられた建築家やデザイナーの優れた方々もおられる。
昨日記事にさせていただいた誰でも参加できる基本を築ける要素と共に、一方ではデザインと一口にいっても本当に様々な要素が絡み合って、ようやく人々に愛され評価されるものが出来上がるということも、デザイナーはもちろん、デザインに携わる人は心に留めておく必要もあるだろう。
そして、日本人の本来持っていたはずの魂や感性は、世界に通用するものを生み出せるということにも今一度目を向け、見失わず、自信と誇りをもってよいのではないだろうか。
デザインの世界においても。
どんな優れたデザインの図面を描いたとしても、それを見事に形にしてくれる現場サイドの段取りや相談、指示、そしてさらに威力を発揮する職人さんの技のような部分、この協力がなければ良いデザインに結びつかないことは多々ある。
先だってのJCDのシンポジウムでのお話しをまた取り上げると、佐藤オオキ氏のwindというスツールがあるが、あれが出来上がったのは天童木工の職人さんの技あってのものだったそうだ。
話を聞かなくとも業界の方なら、windを一目ご覧になって、天童木工と結びつけられた方も多いのではないだろうか。
この技術力は、気がかりな部分では2007年問題とも絡んでくる。団塊世代の定年退職から起こりうる問題、一見デザインとは関係ないことのように見える社会問題が、良質のデザインを生み出せるかどうかにも関わってくることで、人材の育成がこれから重要課題となってくるだろう。
プロダクト生産においては、海外での生産土壌の開拓もさらに必要とされ、情報管理と技術力発信が日本経済をも支える鍵になるようにも感じる。
また生み出すだけではなく、その後のメンテナンスといった対応の良し悪しも、この問題と昨今の企業の生き残りをかけた大量リストラが関わっている。現場サイドの人材確保は、長期的な展望に立った時の企業の存続において、考え改めるべき問題でもあるかもしれない。
優れた人材や技術力、さらにここから考え進めていくと、本来、日本人が持っている情緒といったことにも繋がっていくようにも思う。団塊世代が築いてきた高度成長へ向けた技術力のこだわりは、勤勉さであり、きめ細やかさに気がつける心からくるものでもあり、昔から日本人が培ってきた精神世界にもおおいに関わる部分である。
そして、この精神的な要素は、デザインの世界にも巡りめぐって反映される必要を迫られる。
日本のアニメーションやマンガは海外でも高い評価を得ているが、そのきめ細やかさや情緒豊かな感性による表現力が評価されているとも言えると思う。
日本国内のインテリアやデザイン雑誌で、売れる雑誌、売れゆきの伸び悩む雑誌の違いも、内容ありきの上で、一目見た瞬間、この感性に響くようレイアウトされているか否かも関係あるのではないだろうかと思うことがある。海外のすばらしいものを日本に取り込む時には、見せ方、色使い、日本の環境に置き換えてみる必要もあるのではないだろうか。
どんなに欧米文化が広がっても、日本人が子供のころから育っていく環境の中で、四季があり、それを愛でる日本人の心理は、好むものを自然に選ばせる。桜の花びらや紅葉に感じ取る色合いや風情のような、そんな環境の中で自然に身につく選べる感性は、今、日本人が見直すべき、世界にも誇れるものを生み出せる原動力のひとつでもあるのかもしれない。
無機質な素材のものすら、まわりの環境とのマッチやいくつかの素材の組み合わせで、わびさびといった風情を表現させるような感性も日本人は持っており、そんな建築やプロダクトのデザインを手掛けられた建築家やデザイナーの優れた方々もおられる。
昨日記事にさせていただいた誰でも参加できる基本を築ける要素と共に、一方ではデザインと一口にいっても本当に様々な要素が絡み合って、ようやく人々に愛され評価されるものが出来上がるということも、デザイナーはもちろん、デザインに携わる人は心に留めておく必要もあるだろう。
そして、日本人の本来持っていたはずの魂や感性は、世界に通用するものを生み出せるということにも今一度目を向け、見失わず、自信と誇りをもってよいのではないだろうか。
デザインの世界においても。
2006年03月15日
できることから始めてみる
インハウス(企業)デザイナーであるか、フリーの(独立している)デザイナーであるか。
インハウスデザイナーという言葉も最近になって使われ出した言葉で、様々な方々の間で語られる部分でもありますね。先だって記事にさせていただいたシンポジウムでも、話題になっていた内容でもあります。
いろんな経験をしてきて、いろんな方々とお会いもしてきて思うことですが、インハウスかそうでないかの間に感覚的なレベル差というのは、そうはないように感じています。根本的に、デザイナーとして目指さなければならないことは同じだからです。デザインとアートの違いが、そこにもあるように思います。
デザインは商業活動の一環に成り立ち、ユーザーのために行われるという部分が大きい。もちろん、家庭内でデザインにこだわってみるといったこともありますが、それはまた別次元で語られるお話です。
先日から就職に悩む方のお話を聞く機会がけっこうあるのですが、デザイナーの問題に限らず、仕事をするということでの姿勢や生き方は、今までもそうでしたがこれからの時代は特に、企業人であるなしとかではなく、個人一人一人の能力をいかに伸ばせるか、それが最も重要であるように思います。人を伸ばせられる企業は企業としても伸びるし、自分を伸ばせる人はどこに所属するかではなく、何かしらの形で社会に貢献していくことができます。
これ、かなり大切なことです。
もうひとつ、
身近なことを見直してみることを社会でお勧めしていく中に、日本の中でのデザインのありようを変えられる力も潜んでいると感じることがあります。
美しく住まうこと、美しいデザインを創り上げることへの第一歩も、身近なこと、できることから始めてみることは、とても意味があり、誰でも参加できることです。
誰でも参加できる、自分にもできる…、そう思うこと、思わせることができる活動は、社会的な効果も最も高いように思います。
デザイナーは化学者ではないから、今、世の中にある素材を駆使して、様々な形を創り出します。
その感覚は、デザイナーでなければ出来ないことではないのです。
たとえ100円ショップで買ってきた花瓶でも、そこに花を一輪かざりテーブルに添えてみようと思うような心を育むことから始めてみることが、飾ってみた人がいずれもっと素敵な何かに出会えることに繋がり、さらに社会でのデザイン意識や美しい日本の姿にも繋がっていくのではないかと、わたしは思います。
そんなささやかなことから、素敵な自分創りも始まっていくのかもしれませんよね。
インハウスデザイナーという言葉も最近になって使われ出した言葉で、様々な方々の間で語られる部分でもありますね。先だって記事にさせていただいたシンポジウムでも、話題になっていた内容でもあります。
いろんな経験をしてきて、いろんな方々とお会いもしてきて思うことですが、インハウスかそうでないかの間に感覚的なレベル差というのは、そうはないように感じています。根本的に、デザイナーとして目指さなければならないことは同じだからです。デザインとアートの違いが、そこにもあるように思います。
デザインは商業活動の一環に成り立ち、ユーザーのために行われるという部分が大きい。もちろん、家庭内でデザインにこだわってみるといったこともありますが、それはまた別次元で語られるお話です。
先日から就職に悩む方のお話を聞く機会がけっこうあるのですが、デザイナーの問題に限らず、仕事をするということでの姿勢や生き方は、今までもそうでしたがこれからの時代は特に、企業人であるなしとかではなく、個人一人一人の能力をいかに伸ばせるか、それが最も重要であるように思います。人を伸ばせられる企業は企業としても伸びるし、自分を伸ばせる人はどこに所属するかではなく、何かしらの形で社会に貢献していくことができます。
これ、かなり大切なことです。
もうひとつ、
身近なことを見直してみることを社会でお勧めしていく中に、日本の中でのデザインのありようを変えられる力も潜んでいると感じることがあります。
美しく住まうこと、美しいデザインを創り上げることへの第一歩も、身近なこと、できることから始めてみることは、とても意味があり、誰でも参加できることです。
誰でも参加できる、自分にもできる…、そう思うこと、思わせることができる活動は、社会的な効果も最も高いように思います。
デザイナーは化学者ではないから、今、世の中にある素材を駆使して、様々な形を創り出します。
その感覚は、デザイナーでなければ出来ないことではないのです。
たとえ100円ショップで買ってきた花瓶でも、そこに花を一輪かざりテーブルに添えてみようと思うような心を育むことから始めてみることが、飾ってみた人がいずれもっと素敵な何かに出会えることに繋がり、さらに社会でのデザイン意識や美しい日本の姿にも繋がっていくのではないかと、わたしは思います。
そんなささやかなことから、素敵な自分創りも始まっていくのかもしれませんよね。
2006年03月13日
HAPPY?
今年1月から始まったドラマが、最終回を迎えつつあるようだが、録画したりしながらも見続けていたものに、松本清張・原作の「けものみち」があった。
ドラマはドラマとして原作とは別物語として見ていれば、家族団欒で見る時間帯のものとして、おもしろい成り行きにした脚本だと思ったが、やはり原作とは明らかに違う。
なんであんな風に変えてしまうのか…、やはりテレビの場合ある程度、ハッピーエンドにしなければならないのだろうか・・・。
わたしもハッピーエンドなストーリーは好きである。だけどなぁ、松本清張の作品と言えば名作で、あの話が名作たらんとするところは、主人公の悲劇的末路と、どこまでも悪党の巧妙さにある気がする…。白昼の死角。なさそうで有り得る、真実味ある事件であったり人間心理であったり、それらが折り重なって主人公の悲劇は成り立っているし、名作なんじゃないだろうか。
この手のハッピーに終わらせは、いろんなドラマであったが、NHKで再放送されていた山本文緒・原作の「ブルーもしくはブルー」にしても…、少々考え込んでしまった。
原作と、ハッピーへの捕え方が違うように思える。
「風と共に去りぬ」の続編小説が出た時に読んでみて感じた違和感も、なんとも言えなかった。なんでわざわざ、レット・バトラーが戻ってくるなんて、付け加える必要があるんだろうか…。あれを読んで、戻ってきたらいいのになんて、安っぽく恋愛沙汰で捕えるには本当に名作すぎる。壮大な歴史を背景に繰り広げられる人間模様。気高き人々。それにあの最後は、アンハッピーというものではない。ただの恋愛小説ではないのだ。わたしは、そう思う。
ヴァチカンにあるミケランジェロの壁画の裸体画に腰衣を描いて、後世に“フンドシ画家”と言われた画家がいたそうだが・・・、名作に付け加えて台無しになることは多々あるようにも思う。
そういえば今、「ダ・ヴィンチ・コード」が文庫化されたので遅ればせながら読んでいるが、映画化されたものとの違いを、これもとくと拝見したいと思っている。
繰り返し述べておくが、わたしはハッピーストーリー好きである。だけど、自分に置き換えてみての場合のハッピーなども、少々包み隠しておくぐらいの方が魅力的かなとも思っている。
ドラマはドラマとして原作とは別物語として見ていれば、家族団欒で見る時間帯のものとして、おもしろい成り行きにした脚本だと思ったが、やはり原作とは明らかに違う。
なんであんな風に変えてしまうのか…、やはりテレビの場合ある程度、ハッピーエンドにしなければならないのだろうか・・・。
わたしもハッピーエンドなストーリーは好きである。だけどなぁ、松本清張の作品と言えば名作で、あの話が名作たらんとするところは、主人公の悲劇的末路と、どこまでも悪党の巧妙さにある気がする…。白昼の死角。なさそうで有り得る、真実味ある事件であったり人間心理であったり、それらが折り重なって主人公の悲劇は成り立っているし、名作なんじゃないだろうか。
この手のハッピーに終わらせは、いろんなドラマであったが、NHKで再放送されていた山本文緒・原作の「ブルーもしくはブルー」にしても…、少々考え込んでしまった。
原作と、ハッピーへの捕え方が違うように思える。
「風と共に去りぬ」の続編小説が出た時に読んでみて感じた違和感も、なんとも言えなかった。なんでわざわざ、レット・バトラーが戻ってくるなんて、付け加える必要があるんだろうか…。あれを読んで、戻ってきたらいいのになんて、安っぽく恋愛沙汰で捕えるには本当に名作すぎる。壮大な歴史を背景に繰り広げられる人間模様。気高き人々。それにあの最後は、アンハッピーというものではない。ただの恋愛小説ではないのだ。わたしは、そう思う。
ヴァチカンにあるミケランジェロの壁画の裸体画に腰衣を描いて、後世に“フンドシ画家”と言われた画家がいたそうだが・・・、名作に付け加えて台無しになることは多々あるようにも思う。
そういえば今、「ダ・ヴィンチ・コード」が文庫化されたので遅ればせながら読んでいるが、映画化されたものとの違いを、これもとくと拝見したいと思っている。
繰り返し述べておくが、わたしはハッピーストーリー好きである。だけど、自分に置き換えてみての場合のハッピーなども、少々包み隠しておくぐらいの方が魅力的かなとも思っている。
2006年03月11日
学生街の立呑み屋 うづら
今週水曜日(8日)のこと、少々空いた時間を使って、気分転換に訪問した立ち呑み屋さんのご紹介。
今月号の商店建築に掲載されていたお店なのだが、昨今言われている立ち呑み屋さんブームの中でも、大学生が集う場所でというところに少々興味をひかれたのだった。
【住所】大阪府吹田市千里山東1-5-11
【TEL】06-6330-1001
【営業時間】
PM6:00〜AM3:00
(定休日:日曜日)
【開業】2005.06.01
<内外装 全面改装>
【経営者】(有)無名屋
【設計】アライ企画
【施工】ミノル巧芸
[商店建築 2006.03掲載]
大阪・阪急沿線“関大前”のすぐ近くに、このお店はある。関西大学の学生さんや先生、職員の方々の通り道だ。
関大前駅周辺を訪れたのはかなり久しぶりのことで、もうずいぶん昔に、インテリアコーディネーターの資格試験会場が関西大学だったので、その時に訪れて以来になる。試験で頭がいっぱいではっきり覚えていないだけなのかもしれないが、その様子はそれほど大きく変化したという印象はなく、学生“街”といっても大阪市内からは外れた住宅街沿線の、今もまだまだのどかさもある場所であった。
そんな中での、ちょっと小洒落たこの立ち呑み屋さんは、二十歳を過ぎた学生さんのニーズにとてもマッチしている。小さいながらちょっとおしゃれにデザインされた空間、全品一品300円、店員さんもアルバイトの関西大学の学生さん達が主なそうだ。
おじさま方の寄り道御用達の赤提灯や大阪の串カツが、昔ながらの立ち呑みであったと思うが、最近は、東京のおしゃれなOLさんでも通うような立ち呑み屋さんが登場していると聞く。ブームに乗って広がりを見せているが、おしゃれさからお値段も高め設定で座るところと同じお酒や食材で勝負していると、ブームが過ぎたあとは難しいかもしれない。
そんな世間のブームに乗っているようでちょっと違うのが、このお店のような気がする。
店員さんとも集るお客さんとも、かなり年齢差のあるわたしでも、気軽に楽しく過ごさせていただけた。皆さん、とてもしっかりした、聡明な学生さん達だった。
ニーズにあった価格帯の商品を提供しながら、その空間のちょっとしたデザインは、集る人を自然に選ぶかもしれない。デザインは、そんな使われ方もある。
さりげなく店中を見せながら、内側で広がる交流の温かさも感じさせる木格子のファサード。
カウンターは上部も側面も全面タイルになっており、清潔感も保ちやすい。クリーム色の小さなつるんとしたタイルが、なんとなく“うづら”の卵を剥いたときの姿を思い出させた。
わたしの相手をしてくれた男性の店員さんは、初めて面接に訪れた時、お風呂みたいでおもしろいと思ったそうだ。お風呂というと…内容は全然違うが、佐藤オオキ氏デザインのカラオケBOXでもテーマになっていた。あれは確か、日常で歌いたくなる場所はお風呂だからというコンセプトだったが、お風呂や温泉でお酒という組み合わせイメージも、日本人は持っている。
若い人達が今、楽しみながら寛げる、自分達流の空間を求めているのかもしれない。
また、カウンターと対する壁面には、カウンターに使われているタイルと同じタイルで作られた大きさの違うボックスを、高さもランダムに配置し、それらが装飾にもなりテーブルにもなる、小さな空間をフルに活かせるデザインがなされていた。
学生の間に会社を作ろうと計画中という人、もうすぐ卒業だけど就職活動に悩んでいるという人、建築を目指していて徹夜で模型作りをしていたという人、同じ学生さんでもそれぞれの夢や人生模様もあり、また悩みもありのようだった。今、それぞれのご自身を大切にして、自分と向き合い、未来に向けて羽ばたいていってほしい、本当にそう思う。どんなことも、プラスに変えることができるのも自分。学校の勉強も、このお店で友達と語りあったことも、よい思い出としてだけではない経験として身になり、それを感じる時もきっとくるはず…。
そんな皆さんに心からのエールを送りたい。
そして卒業後も、またここで語り合う日がくる、そんなお店であり続けてほしい、そんな想い膨らむ春風を感じる夜だった。
今月号の商店建築に掲載されていたお店なのだが、昨今言われている立ち呑み屋さんブームの中でも、大学生が集う場所でというところに少々興味をひかれたのだった。

【TEL】06-6330-1001
【営業時間】
PM6:00〜AM3:00
(定休日:日曜日)
【開業】2005.06.01
<内外装 全面改装>
【経営者】(有)無名屋
【設計】アライ企画
【施工】ミノル巧芸
[商店建築 2006.03掲載]
大阪・阪急沿線“関大前”のすぐ近くに、このお店はある。関西大学の学生さんや先生、職員の方々の通り道だ。
関大前駅周辺を訪れたのはかなり久しぶりのことで、もうずいぶん昔に、インテリアコーディネーターの資格試験会場が関西大学だったので、その時に訪れて以来になる。試験で頭がいっぱいではっきり覚えていないだけなのかもしれないが、その様子はそれほど大きく変化したという印象はなく、学生“街”といっても大阪市内からは外れた住宅街沿線の、今もまだまだのどかさもある場所であった。

おじさま方の寄り道御用達の赤提灯や大阪の串カツが、昔ながらの立ち呑みであったと思うが、最近は、東京のおしゃれなOLさんでも通うような立ち呑み屋さんが登場していると聞く。ブームに乗って広がりを見せているが、おしゃれさからお値段も高め設定で座るところと同じお酒や食材で勝負していると、ブームが過ぎたあとは難しいかもしれない。
そんな世間のブームに乗っているようでちょっと違うのが、このお店のような気がする。
店員さんとも集るお客さんとも、かなり年齢差のあるわたしでも、気軽に楽しく過ごさせていただけた。皆さん、とてもしっかりした、聡明な学生さん達だった。
ニーズにあった価格帯の商品を提供しながら、その空間のちょっとしたデザインは、集る人を自然に選ぶかもしれない。デザインは、そんな使われ方もある。
さりげなく店中を見せながら、内側で広がる交流の温かさも感じさせる木格子のファサード。
カウンターは上部も側面も全面タイルになっており、清潔感も保ちやすい。クリーム色の小さなつるんとしたタイルが、なんとなく“うづら”の卵を剥いたときの姿を思い出させた。
わたしの相手をしてくれた男性の店員さんは、初めて面接に訪れた時、お風呂みたいでおもしろいと思ったそうだ。お風呂というと…内容は全然違うが、佐藤オオキ氏デザインのカラオケBOXでもテーマになっていた。あれは確か、日常で歌いたくなる場所はお風呂だからというコンセプトだったが、お風呂や温泉でお酒という組み合わせイメージも、日本人は持っている。
若い人達が今、楽しみながら寛げる、自分達流の空間を求めているのかもしれない。
また、カウンターと対する壁面には、カウンターに使われているタイルと同じタイルで作られた大きさの違うボックスを、高さもランダムに配置し、それらが装飾にもなりテーブルにもなる、小さな空間をフルに活かせるデザインがなされていた。
学生の間に会社を作ろうと計画中という人、もうすぐ卒業だけど就職活動に悩んでいるという人、建築を目指していて徹夜で模型作りをしていたという人、同じ学生さんでもそれぞれの夢や人生模様もあり、また悩みもありのようだった。今、それぞれのご自身を大切にして、自分と向き合い、未来に向けて羽ばたいていってほしい、本当にそう思う。どんなことも、プラスに変えることができるのも自分。学校の勉強も、このお店で友達と語りあったことも、よい思い出としてだけではない経験として身になり、それを感じる時もきっとくるはず…。
そんな皆さんに心からのエールを送りたい。
そして卒業後も、またここで語り合う日がくる、そんなお店であり続けてほしい、そんな想い膨らむ春風を感じる夜だった。
2006年03月06日
内なる瞑(迷?)想
ここしばらく、じっくり調べて書くための落ち着きがありませんが、そういう時は、考えは内へ内へと向かっていく傾向があります。
それはそれで悪い意味ではなく、水面下では沸々と脱皮したくってもがいていたり、ジャンプする前の姿勢で構えていたりのときもあります。(まぁ、ジャンプしないでつんのめることも多々あったり、構え姿勢のまま数年続くなんてこともありますが。(苦笑))あまりほめられたことではない傾向としては、手は動かしていても、頭の中身は違うところに潜り込んでいたりもあります。
考えることは多いのに、カタチとして見えてこない…、情報ブログだったはずが、現状の記事もそんな感じになってしまっているかもしれませんね。
写真は、とあるアミューズメント色の濃い商業施設で見かけたもの。
他にもそこそこ段差の多かった場所のように記憶しているのですが、この自動階段昇降機だけが妙に目立っていました。
ここがどこで、それについて述べようという気は、今はありません。こういうの残念ながら、けっこう見かけるんですよね。“とってつけたような…”と、言えなくない。事実関係を知らないのでほんと言えないのですが、後付けでとってつけたような、そういうものだったんじゃないか…と感じさせる目立ちようでした。まわりとまるで馴染んでいないのです。
そうだった…と、軽く流してよい問題ではありませんが、これから建てられるもの、改装されるものが、真剣に取り組まなくってはならない問題ということに、ここでは留めておきます。
この、とってつけたような…は、文章にも起こりえます。中途半端なことをすると、せっせと更新する価値がふっとんでしまうくらい、不味いものになってしまわなくもないなぁと、わたしの力量では思っています。“おざなり”は、極力さけたいことです。(お読みいただく方からすれば、今日のだってそう映るかもしれませんが。)
成長期の青年は、質より量で、ご飯山盛りと1リットルのコカコーラを一緒に飲み込んでも満足しちゃったりで、それですくすく成長できたりもありますが、すでにそういう時期は終えた世代の、動物占いではコアラ(フットワークの軽いコアラだそうです…)と出るようなわたしなどは、しみじみ考えながらそれなりに馴染むことやっていきたいなぁと、しみじみ書いております。そして訪れていただく方にも、(思考の渦巻き潜伏中は、特につぶやきカテゴリの記事が多くなるかもしれませんが、)勢いでご飯とコカコーラのセットをお出ししないよう…、いられるかな…どうかな…がんばらなきゃねとは、心の中では思っている今日この頃です。
それはそれで悪い意味ではなく、水面下では沸々と脱皮したくってもがいていたり、ジャンプする前の姿勢で構えていたりのときもあります。(まぁ、ジャンプしないでつんのめることも多々あったり、構え姿勢のまま数年続くなんてこともありますが。(苦笑))あまりほめられたことではない傾向としては、手は動かしていても、頭の中身は違うところに潜り込んでいたりもあります。
考えることは多いのに、カタチとして見えてこない…、情報ブログだったはずが、現状の記事もそんな感じになってしまっているかもしれませんね。

他にもそこそこ段差の多かった場所のように記憶しているのですが、この自動階段昇降機だけが妙に目立っていました。
ここがどこで、それについて述べようという気は、今はありません。こういうの残念ながら、けっこう見かけるんですよね。“とってつけたような…”と、言えなくない。事実関係を知らないのでほんと言えないのですが、後付けでとってつけたような、そういうものだったんじゃないか…と感じさせる目立ちようでした。まわりとまるで馴染んでいないのです。
そうだった…と、軽く流してよい問題ではありませんが、これから建てられるもの、改装されるものが、真剣に取り組まなくってはならない問題ということに、ここでは留めておきます。
この、とってつけたような…は、文章にも起こりえます。中途半端なことをすると、せっせと更新する価値がふっとんでしまうくらい、不味いものになってしまわなくもないなぁと、わたしの力量では思っています。“おざなり”は、極力さけたいことです。(お読みいただく方からすれば、今日のだってそう映るかもしれませんが。)
成長期の青年は、質より量で、ご飯山盛りと1リットルのコカコーラを一緒に飲み込んでも満足しちゃったりで、それですくすく成長できたりもありますが、すでにそういう時期は終えた世代の、動物占いではコアラ(フットワークの軽いコアラだそうです…)と出るようなわたしなどは、しみじみ考えながらそれなりに馴染むことやっていきたいなぁと、しみじみ書いております。そして訪れていただく方にも、(思考の渦巻き潜伏中は、特につぶやきカテゴリの記事が多くなるかもしれませんが、)勢いでご飯とコカコーラのセットをお出ししないよう…、いられるかな…どうかな…がんばらなきゃねとは、心の中では思っている今日この頃です。
2006年03月03日
温故知新

雛人形の起源は、人形にその年の災いなどを移して本人の代わりに川に流す“流し雛”にあると言われていますが、これが江戸時代に女の子の人形遊びと結びついて、その幸せと成長を祈る行事として飾られるようになった、日本の風流な行事のひとつですね。
我が家でも毎年、2月の中ごろからお雛様を飾ります。写真は、そのお雛様。現在は狭い家の中、アップライトのピアノの上に飾っている状態で、ピアノにもお雛様にも、かなり申し訳ない気分だったりはします。
でも、季節感のある行事などに合せた飾りは楽しいもので、季節を感じることができる日本の風土と、そこから芽生えた文化の良さを改めて感じます。
最近どうも、古いものより新しいものがよいとか、またその反対のご意見やら、どちらかを強く尊重するご意見をあちこちのブログなどで目にすることがありますが、わたしは、どちらがどうと比べられるものでもない気がします。
歴史ある五重塔も、ブレードランナーに出てきそうな未来感ある原 広司氏の空中庭園も、どちらもそれぞれの魅力がある。囲炉裏に土瓶の風情も、深澤直人氏の加湿器も、やはりそれぞれの良さがありますよね。
古いもの新しいもの、それぞれの良さを認められてこそ、現代の文化人なのではないでしょうか。
それに、その方が生活も心も、より豊かに暮らせる気がします。
新しいシンプルなデザインが最高!海外デザインが最高!本当にすばらしいデザインのもの数多くあります。
けれど、そればかりが唱えられると、そんな言葉がなんだか、文明開化の時に日本の浮世絵などを大量に売りさばいた商人と同じように見えてしまうような・・・。
そして日本の良さを知っているのが、海外のアーティストやデザイナーだったなんて、現代でも繰り返すなら、愚かで悲しいことですよね。
2006年03月02日
誇りあるサービス

KLMオランダ航空のピンバッジ。(空港で売っていたものか、はたまた会社のなにかなのかは、今となってはさだかではありません。詳しいことは内緒。(苦笑))
それはさておいて何が言いたかったかといいますと、このバッジの羽の上の王冠は、永年にわたりオランダに貢献した企業、それも一業種一社にのみ限られ与えられる“ロイヤル”の称号の証なんですね。KLMオランダ航空(ROYAL DUCH AIRLINE)は、その限られた数社の中の一社になります。
今、JALが大もめにもめて大変な事態になりながら、経営陣を刷新し新たな展開をはじめています。ニュースでも大きく取り上げられていますが、JALがこんな事態になるなんて、昔は考えられないことでした。航空事業は、KLMオランダ航空がロイヤルの称号を与えられるくらい国を挙げての事業でもあり、日本においてJALは、その誰もが知るリーディングカンパニーです。これは、本当に悲しい事態。
過去のJALは、誇りあるサービスを提供する、ロイヤルに匹敵するだけのものがあったはずです。鶴丸マークのロゴが消えたのと一緒に、その誇りまで失ってほしくはありません。
一日も早くこの危機的状況から、脱してほしいです・・・。