2007年02月24日

ラピート

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関西空港と大阪市内を結ぶ、南海電鉄のラピートです。
このカタチ、つくづく思いますが、鉄人28号ですね。

デザイン関係者の方はご存知の方も多いことと思いますが、このデザインをされたのは京都の建築家・若林広幸氏で、ラピート登場の当時はJR西日本のはるかをデザインされた木村一男氏との間で、議論が繰り広げられたりもしました。
よく聞いたことのある意見は、“はるかは設計で、ラピートはデザイン”といったことでしたが、今更のように、どちらがどうのといったことをここで述べるつもりはありません。

ただ、当時はまだ現在以上に、元々の分野や領域を超えるといったことに、元々そこで活躍してきた方々の抵抗感は強かったのではないかと思います。
木村一男氏にしてみれば、新幹線のデザインにも携わってこられたその道のプロであり、車両のあり方というものに確固たる信念もあったことでしょう。そして、それに対抗する私鉄としての集客を見込むためのアイデアに、このラピートの斬新さも必要だったはずです。
どちらも、それぞれに必要とされた事柄に対し、真剣であったことには違いありません。

分野を越え領域を超えるところに、時として、まったく新しい発想の転換が生まれる。そこに立ち向かう姿勢が真摯であれば、後々には、それぞれにそれでよかったと落ち着くように思います。

ラピートもはるかも、どちらもその時の交通経路の利便性などで使い分けて利用しています。仕事での利用がはるか、プライベートでの利用がラピート、そんな気分的使い分けもあるかも。
日常的なイメージの強いものも、そうでないものも、どちらもそれぞれの理に適ったデザインなのではないでしょうか。

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2007年02月22日

背景の上に成り立つ

ちょっと前まで、所謂おしゃれなデザインされた小物雑貨などは、少々特化されたインテリアと雑貨を扱うようなお店に並んでいたように思う。だが最近は、そんなお店の種類も増え、さらに100円・300円均一のようなところでも、それなりにおしゃれと感じられるような商品を扱うようになってきた。
文具やキッチン雑貨など、何か欲しいと思った時の購入の選択肢は、ものすごく多くなったように思う。

デザインにおしゃれ感をイコールさせる人は、未だに多いように思う。だが、それだけがデザインではない。それだけがデザインではないということを、有識者であるデザイナーの方々は、どこかで講演などがあるたびに一度は語っておられるように感じる。
デザイナーとデザインを売り物にするために仕掛ける人々の間で、デザインを理解するということの認識の差が案外大きくあるように感じられてしまうこと、その隙間を埋めることがデザイン界にとって結構重要なんじゃないかと思うことがある。社会がデザインとはなんぞやと考えるきっかけをつくる窓口が、いつまでたっても、“おしゃれである=デザイン”だけに興味を持ってスポットを当てているのでは、デザイナーの社会的意義が見失われてしまうのではないだろうか。

古い旅館を再生されたあるデザイナーの方が、大変な手間をかけ整理し空間をデザインしたが、できる限りデザイナーが手を加えたことを感じさせないようにデザインしたと語っておられたことがあった。空間に存在する時間軸の大切さを思ってのデザインということだったが、こういったことの重要性は、一般的に語られやすいデザインのおしゃれさからくるインパクトなど以上に、あらゆる場所に存在するデザインの重要性でもある。
そんな部分にも力をいれ、心を砕き、デザインされたものもたくさん存在するのだ。

都市では、街にあふれつつあるおしゃれデザイン。
それだけに消費者の目が必ず向くとは、限らないこともある。
同じ通りに数店のドラッグ店が建ち並ぶ激戦区で、おしゃれ感が高いデザインが前面に出たお店とそうでないお店、どちらが売れているかといえば、圧倒的にそうでないお店であったりすることもある。おしゃれ感が高いデザイン性の高いお店は、そのデザインを全国で統一展開しているようだが、地域によって異なる集まる消費者層の心理を見極められていないとも言える。
そうでないところがデザインをしていないかと言えば、そこにもデザインの力は存在している。

いろんなデザインのカタチがあり、その背景がある。
背景の上に成り立っていること、その内容がより重要なデザインの理由だ。

一般的に語られやすいおしゃれなデザインされたもの、おしゃれさにもいろいろあるが、デザインされたことを感じさせすぎないデザインの魅力も、もっと世の中に浸透していってほしい。
posted by Rin at 12:18| Comment(2) | TrackBack(0) | デザイン全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

境地

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“無”や“空”といった境地とは、どのような境地だろう。
果てしない旅の先にようやくたどり着く心の世界のようで、それでいて、最も身近な内なる世界なのかもしれないとも思う。

今年、恩師からいただいた年賀状に、宗教よりも深い、新しい思想というものの存在を、宗教という言葉を使わずに表現することを考えておられるといったことが書いてあり、昔の人が無や空と表現してきた苦心が、今になってわかるように思うと締めくくっておられたことが、どこか心に残っていた。わたしが教えていただいていた頃、某芸大の学長でもあった恩師であり、その後の歳月の流れを思っても、想像を超える熟考の彼方の岸辺にあるようなことだ。恩師の云わんとなさっているような学術的な意味合いもある部分にはとうてい考え及ばないのだが、“無”や“空”といったものが宗教を超える真理として表現もされてきた、その所以に、近づこうとすれば救いがあるような気がしている。

自分が正しいと思うことが最も成し遂げたいと思うことだとするならば、その成し遂げたいことは自我を遠ざけなければできないことかもしれない。正しいと思うことは、自らにとって正しいのではなく社会にとって正しいと思うことで、最近のわたしの場合、そんな部分が心を占めていることが多い。
本当に成したいことだけを成さんとするならば、簡単に言えば、社会的に偉くなるしかないのだが、心のあり様の徳といったものも最後に関わってくるのかもしれない。
実社会の現実は、それぞれの我の塊のようなものに満ち満ちていることは多く、それらに取り囲まれた時に自我が更に敏感に研ぎ澄まされていくとするならば、それはいずれ自らを突き刺してしまうように感じている。実社会にめぐらされた我というものから逃れたくてしかたがなくて、もがいていることが多いのだが、簡単に逃れられるものでもない。そこから身を守ることも、自らの中でたどり着く、無であり空であるような気がしている。

これは心のカタチであり、永遠のテーマかもしれない。
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2007年02月10日

先見の明

最近、このブログで取り上げたことが、後で各種新聞の特集ネタになっているようなことも見かける。
デザイン関係者の方が書いておられるものは、けっこういつも目を通しているが、このブログに限らず、ブログが先に情報や考え方を提供していて、新聞・雑誌が後追いになっているようなこと、よく見かけるように思う。
以前、“デザインを語ると社会も動く(かも?!)”という記事を書かせていただいたことがあるが、編集者の方々などがネット上でネタ探しをしている姿が、かなりリアルに思い浮かべられる今日この頃かもしれない。

ところで、今月15日に創刊されるイギリスの雑誌『Monocle』で、サッカー元日本代表の中田英寿氏が編集者として編集会議に出席しているそうだ。
『Monocle』の編集長は、英デザイン誌「Wall Paper」の創始者としても知られるタイラー・ブリュレ氏とのこと。ブリュレ氏と言えば、日本の文具業界力結集の文具、Craft Design Technologyを仕掛けるお一人でもある。日本に対する造詣が深い方でもあり、創刊号では日本やアジアの特集記事が予定されていたり、日本人の漫画家による漫画の連載もあるようだ。ごく普通の雑誌編集での視点とは異なる新たな視点が、中田氏などの起用によって開かれるのかもしれない。そこには、実際に様々な場所において経験してきたこと、見てきたものからわかることが存在するのではないだろうか。

情報はぐるぐる巡り共有化され、焼き直しされ、そうしてこのようなブログも成り立っているのだが、それにしても、日本をなぜか日本のデザイン界以上に海外でお先に高評価なんてことや、ネットの方が視点が新鮮なんてことでは、もう終わらせない時代になってほしい。
実際の経験と身近な観察あってこそ、先見の明も生まれるというものだ。
posted by Rin at 09:41| Comment(2) | TrackBack(0) | デザイン全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月06日

看板対抗

心斎橋-ナイキ.jpg


テッペンで競っています。大阪・心斎橋にて。


アメリカ村-アディダス.jpg

2007年02月05日

敷地を読み取る重要性

何かの折にふれ、表現こそ違えど繰り返し書かせていただいてきたことかもしれないが、大型の建築物といった施設を創りあげるにあたって、最も重要であると思っていることは、“敷地を読み取る”ことだ。単純なカタチの問題だけではない。その周辺環境へ与える影響や、そこに住む人々、集う人々の暮らしとの関係性や、数年後、何十年後の先にも良い影響を与えながら残し得ることができるのか、不変と変化、その両面を捉えるような視点を持って、その敷地が何を、どのような形を必要としているのかを総合的に考えることの重要性である。
これは、このブログを続けてきた中で、より一層強く感じるようになったことである。
本来なら当たり前のことのようにも思えるこのことが、そう簡単なことではない現状によって、街のいたるところが埋められていっているのかもしれない。多くの企業による開発で起こっている問題点があるとすれば、そのほとんどが、このことがおろそかにされてきた結果であるとも思っている。
それに気がつき始め、根本的な見直しを少しづつでも始めている企業もあるようにも思う。

以前、大阪・南港のWTCに仕事で関わって、そして年月を経て感じることとしても書かせていただいたことがあるが、建ててしまったならば、なんとかして使っていくことを考えていかなければならないということがあるのだ。スクラップ&ビルドを繰返すために大きな資本を投じるなどは、あってはならないことのはずである。
それだけに一番最初の段階、敷地を読み取ることが、その建物の命運を分ける重要性を帯びている。

このブログを通しても様々な施設を訪れ、いろんな角度から施設を見るように努めてきたつもりなのだが、優れた建築家などがその施設のコンセプト部分にも関わって創り上げられた優れた施設は、それぞれの敷地を読み取り上げた中から生まれた無二のものである。
無二の中に同じ要素を含むこともあるかもしれないが、同じ要素の中に差別化が存在するようなものではない。ここに、けっして他では真似のできない、知識と技術力が存在するのだと思う。同じ要素の中に差別化が存在するものは、一つの例さえ手にすれば、ある程度の資本を持った企業であればどこでも真似ができるだろうし、すでに現状そんな繰り返しによって創られた街が、今、危機に瀕してもいるのではないだろうか。

このブログを単なる商業施設めぐりの一環として捉えて読まれる方もあり、確かに今年最初にイオンのNSCを取り上げさせていただいたりで、一見、それぞれの情報源という要素が強いかもしれないが、なぜNSCを取り上げさせていただいたかには、迫られている社会変化の必要性をそこに顕著にみることができるからという部分もあってのものだったりする。情報をまとめるだけであれば、誰にでもできることかもしれないし、それだけであればあまり意味をなさないかもしれない。
簡単なように思えることが情報の積み重ねの先にようやく見えることもあるという部分に、ここを続けることの意味も見つけたいと感じるこの頃である。ビジネスに関する部分はあっても、ビジネス以前の重要性をここでは追い求めてきたし、これからもそうありたい。

最後に、今一度述べておきたいが、敷地を読み取ることをおろそかに創りあげられるものは、いずれ淘汰されるようなものでしかないように感じている。
posted by Rin at 12:14| Comment(2) | TrackBack(0) | デザイン全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

真の美しい日本へ

先月末、新聞などで報じられていたが、邦画の2006年映画興行収入が、洋画を21年ぶりに上回る結果となったようだ。
ちょっと痛快なニュースのように感じている。
確かに昨今、話題になった映画にどんな作品があったかと思い浮かべると、邦画の題名がかなり多く思い出されるかもしれない。昨年の邦画での最大のヒットは「ゲド戦記」だったようだが、それ以外でも昨今、より高いストーリー性を持った邦画が話題を集めるようになってきている。少し前から、「たそがれ清兵衛」や「ALWAYS 三丁目の夕日」のようなヒューマニズム溢れる作品が製作され、高く評価されるようになり、それが昨年の結果にも結びついてきているように感じる。

この背景には、邦画の活躍だけではなく、洋画が右肩下がりであるという現状もある。今朝方見ていたTVでも取り上げられていたが、今、ハリウッドでは映画ファンドを介在させるシステム化の中で、利益と効率を重んじる傾向が強まり、企画とストーリー性を重視したものを創れない傾向があるようだ。
これについては日本のビジネス社会の中でも、似たような危険をはらんでいるようなことは多々あるように思う。
ものづくりの現場でもそうだ。効率化は金太郎飴的大量生産を促進させ、確かに経済効果もあることだが、根本的な中身重視が伴わなければモノだけは溢れるが欲しいものではないといったことにも繋がる。抽象的な表現に留めているが、これで失敗しているビジネスはかなりあるように思う。
同じようなものをたくさん産み出すのであれば資本力の強いところが勝ち残るが、それだけでは満足できない見る目というものも、モノが溢れることによって養われてもいるのではないだろうか。

邦画の興行収入の結果は、日本という国内文化にも目が向けられつつあるという喜ばしいことでもあるが、ストーリー性の欠いたものには飽き飽きしつつある人の心の中も映し出しているような気もする。

昨年末、“今、求められていること”として、地域社会と密着した野球クラブチーム「大家ベースボールクラブ」のことを例に取り上げさせていただいたが、その後、デザインの世界でも、これまでは海外と日本を比べて日本を卑下する傾向が強かったような方々も、ようやく国内に目を向けられ活動を始められたりしている。いささか現在の社会傾向に便乗した利益追従を睨んだ調子の良さも感じずでもないが(儲けることが悪いことだというのではない)、それでも大いに喜ばしいことだと思う。ぜひ力を入れていっていただきたいことだと思うし、今後の行く末を見守りながら、自らも参加できるようなことには力を尽くしたいとも思う。
結局のところ、どんなに隣の芝生が青く見えようとも、自分の国の文化を愛せなければ、海外の良さを見習うことなどできないのではないかと思っている。

日本、そしてその文化の中に秘められた豊かなストーリー性、それを活かして世界へ誇ることができるのも、私達、日本人でしかない。
posted by Rin at 10:54| Comment(4) | TrackBack(0) | つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする