そんな原点から、生活への潤いを創り出すプラスαの要素が加わり、ある時は国と国、宗教と宗教の対立抗争などで持てる力を発揮するための道具を産み出すような行為などにも加わり、平和で物が溢れる時代の変化の中にあっては、心の内の表現のようなアートの世界への入口の扉をも叩かんとしています。
東京で、いくつかの展示会を見てきました。
デザインとは何ぞや、その問いに対する答えにつまるような、そんな時代になりつつあるような気がしました。本当はそうではないのかもしれませんが、表現者としてのデザイナーの意識が、どの方向性へ進んだらいいのかを試行錯誤しているように感じたのです。
東京ミッドタウンのデザインハブで行われていた企画展で、年代ごとにずらっと並んだ日本のプロダクトデザイン。そして、チョコレート展。青山でのSENSEWARE。
すでに使いやすさにおいて整理されることが繰り返されてきたようなモノたちへ、より進化を求められるデザイナーの行くべき先をはっきりと見出している人は、それほど多くはないのかもしれません。
デザインにおける、わかりやすさとは、万人にそのものの持つ意味がわかりやすいということにあるのだと思います。例えば、白い冷蔵庫といった家電がわかりやすくてよいとされ買われるのは、白さやシンプルさがどのような部屋にも合わせやすいと万人に簡単に想像がつくという意味によるものです。白くてシンプルなかたちであるからではないのです。
かたちの単純明快さが万人にわかりやすいかと言えば、それは少し違うように思います。単純なかたちが、もし表現者の心の内から発せらた感性の次元のものであった場合、伝わる人には伝わるし、伝わらない人には伝わらない。そういうものではないでしょうか。それが複雑なかたちや表現であれば、なおいっそうそうなります。その次元は、そのかたちから放たれるエネルギーが美であったり、力強さであったりすれば、アートの領域へ入るようにも思います。
以前、TVで放送されていたある番組で、チョコレートをコンセプトにイマジネーションの世界を広げるということについて、安藤忠雄氏が深澤直人氏に、“皆に理解をされようとすることは絶望的ですね”といったようなことを言っておられ、深澤氏が苦笑いしておられたことがありました。お二人の間だからいいようなおっしゃりようですが、あながち、万人の声と重ならないことでもないのです。
けれど、今を生きるデザイナーの創作活動に、チョコレート展で展開しているような発想力は、必要とされるところにデザインの領域がきていることもあるのだと思います。
深澤氏のプラマイゼロにも応用されている部分でもあるのだと思います。
そして、その展示で、それでもやはりさすがだと思ったのは、生活者の視点としてのデザインを、深澤氏はご自身の作品においてどの内容のものにも忘れてはおらず、デザインとアートのギリギリのラインでの鬩ぎあいの中で、デザイナーとしての意味づけができる部分を確実に残されていることを感じました。
21_21の中、これからも使われていくものとして、チョコレート色のスツールがいくつか配されていました。これまでなら、チョコレート色ではなく、ダークオーク調色とでも表現されたかもしれません。
展示会のためだけではないデザインとしての意味合いが、このスツールには生まれていました。深澤氏の展示作品の中には、こういった要素が含まれていたようにも思います。
万人に向けること、と同時に様々な場面の要求に応じられること、多様化していくデザインを取り巻く時代の流れの中、“何が求められていて、そのかたちが必要であるのか”の意味だけは、見失うことなくあることもデザイナーがデザイナーたるための砦なのかもしれません。