2006年09月03日

一期一会

ある晴れた日の昼下がり。暦では夏の終わりも感じ始める、澄んだ空気と青い空が広がるある日。
大きな大学病院の1階にある、中庭が一望できる食堂、その壁一面がガラスの窓際の席で、少し考え事をしていた。その瞬間もこの場所は、晴々とした空の色には関係なく、様々なドラマがあるような気がしながら。

眼のかすみを感じて病院を訪れ、いきなり手術が必要な病名を告げられた。手術すれば治るもので、今の医学からすると、それほど恐れる必要もない内容だからなのだが、普段から健康に自信を持った人間には俄かには信じがたいような驚きと、少し恐怖感も走る。
詳しい検査をするための目薬がさされ、その効き目が現れるまでの30分ほど、昼食をとることになった。

あまり食欲はなかったが、いかにも昔ながらの喫茶室にあるようなメニューの中にホットケーキを見つけて、それとホットコーヒーを頼むことにした。おそらくレトルトを温めたものだろう。ほとんど待つこともなく、差し出された。
普段ならぺろりとたいらげてしまいそうなホットケーキを少しづつ、食べるのか食べないのかもわからない感覚でフォークとナイフの先、いじりながら、大きな窓越しに見える中庭を眺めていた。
本当に良い天気だ。青い空の色も、植えられた木の緑の鮮やかさも、昨日と今日、何も変わらないのだろう。
変化していくのは、そこを通り過ぎる人の人生に起こる様々な出来事と、心の動きなのだろうか。

ぼっとしていると、ふいに声を掛けられた。小さくて、かわいらしいおばあちゃんだ。相席を申し出てこられた。他所の席が空いていなかったわけでもなかったが、断る理由もなく、かわいいおばあちゃんは目の前に小さく腰掛た。二人がけのテーブルに向かい合わせ、一期一会のほんの短いひととき。
おばあちゃんもホットケーキを頼んだ。

「昔ね、よく三越のレストランで食べたんですよ。」と、おっしゃる。
「北浜のですか?」そう尋ね返してみた。
「そうそう、よくご存知ですね。あのお店、なくなっちゃいましたね。子供のころ、母が食べに連れていってくれました。」
小さな、皺の沢山ある痩せた手で、静かにゆっくり、ホットケーキに蜜をかけた。
なぜだろう。ふと、泣けそうになった。自分の母のことも、頭をよぎった。でもここで、泣いてはいけない。
「三越、あと何年かしたら大阪駅にもできますよ。大阪駅の三越、見に行かなくっちゃですよ。」そんなことが口をついて出た。
おばあちゃんは、やさしく笑ってくれた。笑ってくれてよかった。
「そうですね、新聞で見ました。大阪駅にも出来るんですよね。じゃあ、見に行かなくっちゃねぇ。」

しばらく静かに向かい合わせ、ホットケーキを食べていた。
もうすぐ目薬の効きだす30分が経とうとしていた。
先に食べ終え、少し気になりながらも、
「では、お先に失礼します。大阪駅の三越、見に行ってくださいね。」
そう言って立ち上がると、
「それではその時に、またお会いしましょうね。」おばあちゃんは微笑みながら、そう言った。
小さな体の小さなお顔、皺がいっぱいのその皺も、とてもきれいに見えるやさしい笑顔だった。

あの時、不思議に、検査への不安は消えていた。
大阪駅の三越へ、わたしは母を連れて行き、おばあちゃんにも会いたいと、あの時、心から思っていた。


posted by Rin at 13:34 | TrackBack(0) | つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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